造語は TPO さえ弁えればいくらしてもいい派
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造語は TPO さえ弁えればいくらしてもいい派hiro.icon むしろ語彙の開発・研究のために積極的に造語して知見を蓄えるべきとすら言える
造語というのは、概念や言語化についてよく考えるきっかけになるし、表現の良い訓練になるもの
私のような造語家がいることで、造語って何だろうとか、言葉とかコミュニケーションって何だろうという議論も生じる
これって立派な知識の種だよね
私が実は相手にかなり合わせた言葉選びをする人であることはあまり知られていない
多分普通以上に普通の人と普通の会話をしてきた人なので
井戸端民の多数派の方が偏っていてもおかしくない
良い大学の仲間内だけとか、こういう参加者の社会階層の偏ったネットコミュニティとかだけで日常のコミュニケーション終わってない?
逆に、この自信がないとあれだけの造語なんてこわくて出来ない
デライトで内向きに書いているような言葉をずっと喋ってたら社会生活できてないよ 分かりやすい表現が誰よりもちゃんと出来ること、が命綱になっているからこそ出来ている冒険
例えばデライト上でユーザーから何かの問い合わせがあった時、当然わたしはごく普通の言葉使いと語彙で返すのだが
その中でたまに希哲館訳語を使ってくれる人がいて、ちょっと戸惑うことがある 好きで、なおかつちゃんと通じるであろうという正当な確信に基いて使ってくれている分には別に問題ないのだが、こちらが「無理に使わせてないかな?」と気を使ってしまう
だから、「普通の言葉使いでいいですよ」のつもりで普通にカタカナ語で返してしまったりする
ここは訳語の方がしっくりくるな、と思ったら使えばいい
要するに、造語と「分かりやすい言葉」は排他的なものではなく、むしろ究極においては両立しているはずのもの
造語が自由自在に出来るような人は、分かりやすい言葉使いが出来ることも含めて言語能力に長けた人だろうよ
造語の問題とは、造語自体の問題というより造語を読み書きする「時と場合」の問題
書き手も読み手も、ここを間違える人が意外に多い
時も場合も相手も選ばず造語を押しつける方も方だし
自分の世界を自由に探究するのは悪いことではないが、時と場合を間違えると伝えたいことも伝わらなくなってしまう
人が造語で新しい表現を模索しているような場所に勝手に来ておいて造語が多いと文句を言う方も方だし
書き手側の問題ばかり意識されやすいが、それは読み方の間違い、ということも多々ある